なんでもある!

何もないです。

'bout rooting for someone

しを推すことについて。

もう8月ですね。人間なので毎日いろんなことを考えるのですが、そのたびに自分の思想が過激になっていっている気がします。生まれてここで生きているので後戻りはできないけれども。

 

応援、とか。推しを推すことに、ときどき見返りを求める人がいますね。このあいだプロ野球の二軍戦を見に行ったのですが、前に座っていた席の人がしきりに選手に反応を求めていて、得られなかったときに不満そうにしていまして。それを見て、応援ってそういうものだろうか?とふと思ったのです。

まったく純粋な応援という概念があるとは思いませんが、「反応・認識してほしい」「好かれたい」という気持ちはすくなくとも相手からの反応を期待した感情ですよね。応援は推しとの双方向の関係を求めるためにするものじゃないと思うんですよ。あくまで自己完結的な、自分がやりたいからやる、というスタンスを保つべきで。推しに反応を求めて、それがないと応援のモチベーションが下がるなんて人がいたら、その人のやっていることは応援ではなくて金を出して反応を買おうとする行為だと思う。

双方向のように見える愛も、究極的には矢印を互いに勝手に向け合っているだけで、それがなにか同一だったりするわけではないじゃないですか。愛の内包物、含有する感情だったり重さだったり、は当然お互いに異なっていて。結局、何かを愛するというのは自分と向き合わなければいけないとても孤独なことなんじゃないかと思います。

あと、スポーツ選手への応援というのはしょせん外野からの勝手な祈りなんですよ!他人なんだから。パラソーシャル・リレーションシップという、こちらからは関係性が築かれているように見えても、むこうは不特定多数に向けて発信しているだけという一方的な関係性についての単語があるんですけど、毎回これについて考えています。われわれは一般人とテレビ越しのひとの関係が一方的であることをもっと自覚するべきだと思う。

とにかく!二軍戦といえどもプレイグラウンドは野球をする場所であって、人からファンサービスを求める場じゃねえんだよ自覚しろってことです。

いや、まあ、自由ですけどね。

おわります。